ひとりのススメ

人は本来ひとりでいるもの。

世の中の大切だと思えていることの多くが実は雑音でしかないのかもしれない。最近、雑音から離れて極力ひとりで過ごすことに努めている。どんなことに対しても、とことんひとりで思考を追求して答えを出すというプロセスを辿ってみると、ムクムクと自立心が芽生え始める。最初は全ての選択肢を自分だけで選び取っていくというプロセスに少しの不安も覚えたが、だんだんとそれは確信に変わり、それはある種の無為にも近く、瞑想的でさえある。これまでいかに人と一緒にいることで見過ごしていたものがたくさんあったのだろうかと、ひとりの力を鍛え磨かれている。

巷では孤独力、なるものが流行っているらしいしね。

(ここで、Lonely=寂しくしている孤独と、Alone=ひとりでいる孤独は、違うということを定義しておく。)

ひとりでいるということは、まず向き合う相手は自分のみ。何でもひとりで解決しなくてはいけない。日々の楽しいことも、イライラすることも、思わず誰かにシェアしたくなるような出来事も、自己の中で消化するのみ。(こうなってわかるが女性はとにかく感情で喋りすぎ。)何かしらの特殊事情や緊急事態が発生した時にどう行動するのかも、常に信頼すべきは自己の判断のみ。先ほど述べた、選択肢は全て自分で選ぶ、ということ。失敗しても責めるのは自分、だ。

やり続けてみて、これはかなりの心の修行だと気づいた。こんな修行を完璧に成し得ることが出来るんだろうか?

と問うてみて、実は既知の事実であったことを思い出し、ちょっとした衝撃を覚える。

人はひとりで生まれてひとりで死ぬと言うが、確かに私は、母親のお腹の中にいた十ヶ月近くはずっとひとりだった。

胎児と言っても、人としてしっかりと神経系も循環系も消化器系も発生しながらそこにいるので意識も感覚もある。お腹の中で具合が悪い時もあったかもしれないし、母親が怒ったり泣いたりすれば、その動揺は私の心にも伝わっただろうし、それでも誰に縋るでもなく、あんな小さな存在がじっとひとりでお腹の中で、全てを請け負って外に出る時を待っていたわけである。

遂に母のお腹から出てくる時には、自分はどうやって出て来たんだろうか。ちゃんと天地のタイミングを知っていて、よし、出るぞ、と決心して何時間もかけてひとりで出て来たんだなと思うと、我ながら本当に感心する。もちろん母と一緒に頑張ったことには間違いないだろうが、母の周りには何人かのサポートがあったことに対し、中からのサポートは何もなくひとりで出てきたのだから。

初めて泳げるようになった時や自転車に乗れるようになったことよりも凄い。

胎児にして涅槃の域だなと思う。

一体、いつどこから、ひとりの私が存在したのだろう。

私が私になる前、父側の2億個の精子の中から、後に私となるたった一匹が母側の卵子にたどり着く。この時点で受験や就職試験の比ではない相当な競争に勝ち抜いたエリートだったわけだが、どうもそれが自分自身とは思い難い。

世の中には海老蔵さんのように生まれる前の記憶がある人もいるようで、彼はたくさんの周囲をかき分けてかき分けて、自分が一番で到達した、という記憶があるとかいう話を何かの記事で読んだ。

そんな2億分の1の頃の記憶がある人も稀にいるかもしれないが、想像するに、それは肉体、容器としての自己の最初の記憶なのではなかろうか。

意識(魂といってもよい)の方の自己は天から地を見て「よし、あの受精卵に入ろう」と決めたのだと思う。

余談だが、何かを体験し、学ぶためにこの受精卵に決めたにしても、個人的に私はどうもこの父親っぽいエッセンスを帯びた容れ物が好きではない。自分で両親を選んでおきながら私が父を苦手なのはこの辺りに理由があるのかもしれない。

しかし、とにかくここで肉体としての自己の存在が生まれ、肉体としてひとりとなる。魂はもともとひとりなのだから。

この胎児の悟りの体験を持ってして、本来人はひとりでいられるはず、と気づく。

以来、ひとりで解決できないような問題が起きた時には胎児の自分と対話をするように想像している。そうするとどんな難問を前にしても不思議とパワーが湧いてくる。


一方で、人が人と一緒にいるとどうなるか。

社会やコミュニティという場は人がいることで成り立つものであり、それ自体は悪いものでも何でもないが、ただ、意識のレベルではひとりでいる時と人といる時では大きな違いがあるように思う。

端的に言って、目の前にいる人につい忖度をしてしまうのが人の性質である。

自分の嫌いな人であっても、目の前にいれば、つい相手に好いことを言ってしまうし、または目の前の人が大切な人の場合には、好んで相手に合わせようとする。

人といることでかえって本質から随分かけ離れた行動を取ってしまう。

コミュニティの関係性の中では、厳しい本質を突いてめんどくさいことになるよりは、そこそこ人のご機嫌をとっていたほうが生きやすい。

そのうちに、属するコミュティの意識が自己意識だと錯覚してしまい、人の人生を自分の人生だと思って生きてしまう。

自分で考えて生きる力を失ってしまう。

そんな人はたくさんいる。

だから、経典の中には、神をのみを見ろと、神のみを聞けと。娯楽のために盛場に出かけて行ったり、みだりにひとと会ったり、おしゃべりし過ぎてはいけないと、注意喚起しているのだろう。

他人の考えでなく、すべて自分で考えてひとりで行動するということは、全ての責任を自分に託したということになる。

自己の中心に居るということ。

そこではじめて自由が生まれる。

人と交われるのはそこから。

問題は、ひとりになれない人が人と一緒にいるから生じるものである。




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