ヨーロッパで見つけた布施と日本の布施について
今日は暖房が要らないくらい暖かくなってきた3月のある日。
先日の寒かったオランダでのことを思い出す。
今回のオランダへの旅は、現代社会においての『布施』ということを終始考えさせられた、そんな旅となった。
オランダへは気功をやっている仲間、仲間といっても過去に会ったのはたった数回の間柄ではあるが、に招いていただき、陰ヨガのワークショップを行った。
わたしを呼んでくれたのはオランダ人の男性と中国人の女性のカップルで、デン・ハーグで鍼灸院を営んでいる。
築100年とか、そんな古いビルを改装しておしゃれに住んでいるのがなんともヨーロッパらしい。別に彼らはおしゃれに住んでいるつもりはないと思うが、いつもヨーロッパに行く度に、日本における自国の文化や伝統を一切考えない建築物や街づくりを残念に思う。
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住居のことはさておき。
この治療院では週末の陰ヨガのワークショップと、その前夜祭として、日本についてを語るカルチャーイベントが開催された。
そこでの温かく、かつ興味深いエピソードもまた、別の機会に語らせてもらうこととして。
今日伝えたいのは『布施』という行為について。
実はこの合計3日間のイベントで、数名ほど参加費を払わなかった人がいた。
この人たちは、それなりに払えない理由があったのだけど、どうしてもこのイベントに参加したくて来てしまった人たちだった。
主催者でもある治療院のふたりは、彼らに支払いを求めなかった、どころか、帰り際に、躊躇しつつもやっぱり払おうとした女性に、そのお金を優しく突き返した。
参加者の支払いは基本的に、スタジオの隅にカゴが置いてあって、そこにお金を置いていくシステムになっていた。
恐らく普段は、カードで支払ってもらうことが多いと思うが、今回はキャッシュで、という方針だった。
聞いてみると、彼らはこのように何らかの形で他人に施すことをしょっ中やっているらしい。時には治療費をもらわないこともあるし、食事を提供しても食事代をもらわないこともある。
今回の3日間のイベントは主催者としての取り分はゼロで、その上でワークショップ参加者には自腹で手作りのランチやディナーの飲食を提供していた。
まるで菩薩のようだと思ったが、もちろん彼らも、これまでには穏やかでいられないことも多々あったそうだ。
治療院のイベントでは、「わたしが食事を提供するからみなさんもよろしければ何か一品持ってきてね」と言っても、誰も何ももってこない。食事代15ユーロとお知らせして、多めに持って来てくれる人はひとりもいない。彼らが提供する食事、物、サービスは全て無料だと思っている、お客様感覚、とでもいうのだろうか、そんなことを多々繰り返してきたという。
なんだか、やっぱりヨーロッパだな、と思ってしまった。別に差別的な意味でもなんでもないが、そうやって生きてきたのがヨーロッパの歴史なんだろうと思う。事実、わたしも公私に渡りあちこちを旅して回って、欧米人とアジア人の周囲に対する「施し」という習慣が、全く違うことを感じていた。そして現代の日本はとても欧米に寄っていると思う。
かつてアジア人と欧米人がミックスしているトレーニングの現場で何度と見た光景は、アジア人が抱えてきたラゲッジはたくさんの食べ物でいっぱいになっており、これはひとりで食べるわけでなく、みんなに配るためにと持参していた。またアジア人は、トレーニング中に街のマーケットへ出かけると、たくさんのフルーツやお菓子を買って来て、これまた休憩時間のたびにみんなに配っていた。
わたしも若かりし頃は、そんなアジア人のおせっかいが少し「うざいな」と思わなくもなかった。食べたければ自分で食べるから、お願いだからいろいろそんなに与えないで、なんて思ったりもしていた。
ヨーロッパ人を見てみると、そこにお目当てのフルーツがあると自分から貰いにいく。しかも毎日。ではいい加減、貰いすぎだからと、今度はなにかお返しでもするのかと思ったら、絶対にしない。その言い分は「くれるというから貰っただけ。与えたくないのなら断らない彼らが悪い」という超・個人主義的な発想である。
わたしも最近は歳を取ってきたのか、この件に関しては、ヨーロッパ人よりもアジア人の行動に心を寄せてしまう。
惜しみなく与えるアジア人と、奪うだけ奪うヨーロッパ人。と、かつての世界大戦の構図を思わずにはいられない。集団で米作りを行うアジア人の気質は穏やかなので、欧米から攻められるといとも簡単に土地を奪われてしまう、という歴史を振り返る。
ちょっとヨーロッパ人がセコく感じる話に聞こえるかもしれない。もちろん全てのヨーロッパ人がそうだと一括りにはできないし、いい人もたくさんいる。だけど、往々にしてそんな傾向があるのも事実。
話が逸れたので戻そう。
そのオランダのカップルの治療院は、ヨーロッパ人とアジア人のハーモニーがうまく奏でられており、とてもバランスの取れた運営を行っていると感じられた。
少しフライングになるが、今年のYYTT2025-進化した陰ヨガトレーニングでは、バガヴァッド・ギーターを用いて、現代のヨーガ修行者の心得について学ぼうと思っている。
18章あるギーターの最終章で、至高主クリシュナは、離欲について「供養と布施と修行に関する行為は投げうつべからす。自ら進んでなすべきところ。」と述べている。
バガヴァッド・ギーターという、世界で最も尊いといわれる聖典ですら、布施を必ずおこなうようにと、わたしたちに伝えている。
布施についてもうちょっと深めてみよう。
仏教では三つの布施がある。
◯ 財施...貧しい人、または聖者へのお金や食べ物や物の布施
◯無畏施...悩み苦しんでいる人の話を聞き、話し相手になってあげ、その苦しみを和らげたり、畏れを取り除く布施
◯法施...正しい教えの布施。真理を知るための正しい教えに導く布施
そしてこの布施という行為は、布施を行う相手のためでなく、それを行った自分自身のためとなる。布施を行うことで自身の徳を積んでいるのだ。この徳とは単に現世利益的なものではなく、未来に渡って自己の修行が成功していく糧ともなり得る。
オランダのカップルはこの間のイベントで、参加した人々に場所や食事を無償で提供するという財施を行い、また参加者と話をすることで無畏施を行い、さらには禅やヨーガ哲学やタオイズムといった真理を伝える機会を提供するという法施を行い、三つ全てを行ったことにになる。
この行いは彼らにとって珍しいことではないらしく、いつも当たり前にこのような布施となる行為を行っている。
わたしも彼らを真似て、講師料などいらないので、何かオランダで寄付をして帰りたい、と言った。彼らは私の気持ちを何度も優しく必死で断った。
これにはわたしも困ってしまったが、せめてなんとか、数名の参加費をお布施として、受け取ってもらうことができた。
わたしの海外への旅はいつもこうである。
わたしを招いてくれる人は大抵、心に余裕のある人たちで、彼らの金銭的には何の得にもならないのに、自ら喜んでわたしを招いていくる。そしてわざわざ彼らのホームで、陰ヨガのトレーニングやワークショップを行い大切なグループへわたしを紹介してくれる。そして、観光をしてくれて、食事をもてなしてくれる。なぜ、こんないい思いをさせてもらえるのかはわからない。
こんなことが何度も続くと、きっとこれは至高主からの「お前も同じようにしなさい」というメッセージではないかと思っている。
事実、世の中には正反対の人たちもいて、奪うだけ奪おうとする人、自己の利益のためには平気で嘘をつく人、調子に乗っている人、裏切る人、利用するだけの人もいて、そんな人とは距離を取っている。そんな人たちといると心が擦り切れてしまって、もう十分疲れ果ててしまったのだ。せめて自分はこのようにはなってはいけないと、自己のこれまでの行為の振り返りと共に、他山の石として常に心に刻んでいる。
日本にいて、周りを見渡してみると、他人へ施すことの難しさを感じることが多い。
結局、今の日本人は余裕がない、の一言に尽きる。
もちろん、収入の半分近くを税金として奪われ、その割には老後の保証もなにもなし、物価は上がっていくし、給料は上がらない、挙句、貧乏も自己責任、と言われては、お金が無駄に出ていかないように必死になって守るのは当然だろう。しかしながらまた、欧米的な個人主義的考え方に支配され、本来日本人が持っていた思いやりが失われているのも事実。実際のところ、自分の身なりにはそこそこお金を使ったり、ランチをしたりカフェをしたり、趣味やエンタメ代には惜しみなく使っているのに、他人のための時間や労力やお金はケチる、という利己主義も蔓延している。なんといっても自国を売る政治家もいるくらいだからね、驚くことはないのかもしれない。
世の中どうなっていくんだろうか、さまざまなことが積もり積もって限界がやってきて、ある日ドカンとなったりするのだろうか。
いや、きっと世の中は変わらない。
自分が変わればいいのだろう。
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