真ん中ということ


毛沢東。と呼び捨てにすると怒られるらしい。

日本で安保闘争が盛んだった頃の人たちは毛主席やその思想のことをよく知っているんじゃないかな。

今の世代にはわからない。かもしれない。

(最近にわかにマルクス主義が流行り始めてるらしいけど?)


中国の国名の意味は「世界の真ん中」。

そう聞くとまるで「俺たちが世界の中心だぜぃ」とブイブイ言わせるような意味合いをなんとなく想像させるけど、私が先生から聞いた話では、その本当の意味は「中庸の国」の意味だという。

中心、中庸という心や思想を掲げた国。

儒教でいう中庸とは自己の中心すなわち天と地の中心、陰と陽がひとつのものであることで存在する真ん中。ひいては世界を構成する一部は私であり、私は世界そのものでもあるというワンネス。故に人々は誰しもみな平等、という理想を掲げた国名。


先の安保闘争の時代を生きた人が、中国共産党の思想の根本はそのワンネスだった、と教えてくれた。

そのような儒教的思想にどこか共通項を持つマルクス主義を掛け合わせた人民民主主義というのが現在の中国の始まりだったとかなんとか。

さらっと勉強したけれどこの説明が適切かどうかが危ういので、近々手始めに毛沢東語録でも読んでみようかと思う今日この頃。


昔の日本に「判断力の七段階」というものがある。古きインドのヴェーダ哲学の「パンチャコーシャ」とちょっと似ている。

人の判断力とは、生まれおちてすぐには何の判断力も持たず、最初に物理的、機械的判断力が目覚める。次に感覚的判断力や感情的判断力、その次に知性的判断力という段階があり、これらはまだ自己を中心とした低い判断力に過ぎず、だんだんと高いものになるにつれ社会的、次にイデオロジック的と、自己中から社会全体へと目が向き、そして最後に最高の判断力を持つとされる。

最高の判断力までくると、自由がある。宇宙意識である。

知識、主義、思想で行動すれば、ある程度になるといずれ必ず行き詰まりが起こる優等生のようなものであり、そこにはまだ「ねばならぬ」「こうあるべき」というエゴが存在し、それは「支配」であり自由とは真逆のもの。


エゴを超えた先の「意識(最高の判断力、と言ってもいい)」という段階は先の段階の全てから自由になって辿り着いた境地。

どんな学問も宗教も哲学も極めれば最終的には無になる。

自然に還る、ということ。


今日は老子や孔子ではなくて毛沢東の話、だと思ったら周回してタオイズムでした。



 

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