帰依と疑念
先日のメンバーシップで、何かしらの学びや、会得することに対して、対価を支払って購入するという「お客様」感覚でいると、その学びは必ずや疑念を生む、という話をした。
それがショッピングであれば、どんなに必要なものを買ったとしても、それは今の自分の欲望を満たすための行動であるし、購入したものが、自分の希望、欲望、ひいてはエゴに叶うものであって欲しいという大前提がある。だから、購入したものが自分の思いと違っていたり、自分の欲望を満たさない、どころか不快な思いすら突きつけてくるものであれば、返品したり、捨ててしまうかもしれない。もしくは間違った買い物をしたと、ずっとモヤモヤとすることだろう。
わたしはどちらかといえば極端な考えの持ち主なので、何かを会得したい、学びたいのであれば、そのようなショッピング感覚では、何も得ることはできないと思っている。なぜなら、その感覚では、自分にとって心地の良い内容は受け入れるが、いざ成長の機会が訪れ、辛く苦しいターンに入ると、「この教えは正しいのか?」「この先生は信頼できるのか?」と疑念が湧いてくることは容易に想像できる。この疑念が起きると、その学びは必ず失敗に終わる、と思っている。
そのように、学びに対して古風な考え方を持っているわたしが、昔、仲の良い友人(外国人)に「あなたのヨガはどうせ主婦の遊びでしょ」と言われたことがある。その当時のわたしは、毎年のようにいくつかのトレーニングを受け、暇があれば書籍や動画で学び、自主練にも励み、仕事としてもヨガ一本だっため、「なぜにそのようなことを言われなければならないのか? 舐めてるのか?もしくは友達と思っていたがそうではないのか」と考えた。
ちなみにひとつ言わせてもらえば、わたしは主婦ではない。が、今にして思えば、自分は本気でやっているつもりでも、遊びのレベルだったのかもしれないから、その友人の突っ込みは真実を突いていたのかもしれないね。(ひょっとして今も遊びに毛が生えた程度のことかもしれない)
ヨーガを、もしくは今回の人生を、それが修行だと思えば、辛く困難なことがあったとしても、それは自己を成長させ、魂を浄化させるためのものだと、受け入れることができる、かもしれない。
事実、歴史上の聖人たちはそのような修行を経て悟りの道へと至った。
もっともわたしたちには、そのような悟りの道を歩む気概はさらさらないのかもしれないし、それよりも何よりも、日々、自分の人生を生きていくことに忙しい。
しかしながら、実はこの世の誰しもが、生まれたからには必ずそのような修行的課題を背負っているのに、それを知らずに、今日も無駄に過ごしているだけだとしたら?
最近、出口大仁三郎の『霊界物語』を聴いている。王仁三郎は明治から昭和にかけての人なので、非常に今に近い時代ゆえ、なにも仏陀や老子やパタンジャリとまで遡らなくとも(しかも日本人)、その修行の話にリアリティを感じやすい。
長いストーリーの半分も聞いていないが、いくつも印象に残るストーリーがある。
詳細はうる覚えだが、印象的な話の中のひとつに「嵐の夜の山の中で、寒さと恐ろしさと不気味さに耐えながら修行をしていると、そこに現れた野生の熊に対してですら、救われたような感覚を得た」およそ、このようなストーリーだったと思う。
その様子をリアルに想像してみた。身体的には寒さはとても辛く耐え難いものだし、真っ暗な嵐の夜の山の中での耳につく不気味な音と(もしくは悪霊的な存在がいたのか)、その状況はとてつもなく恐ろしい。そのような状況であれば、どんな小さな動物でもいいから、現れて欲しいと当然思うことだろう。自分に襲いかかるかもしれない熊ですら、ありがたい存在となる。
もし現れたのが人間だったら、大嫌いな人でもこの上なくありがたく感じるのは考えるまでもなく。
現代のわたしたちの日常は、非常に安心で便利な世の中になってしまったゆえ、そんな極限的な体験をすることは全くといっていいほどなくなってしまった。だから少しのことで他人を嫌うし、すぐに疑念を持つ。天変地異でもおきない限りは、わたしたちの感覚はずっとぬるま湯の中なのだろう。
昨年の陰ヨガのトレーニングで、密教の歴史の中の重要な聖人たちの話に触れた。
全ての密教が過酷な修行を行う訳ではなく、いくつかの流派があることは心得ているが、実践的な流派での修行内容はかなり過酷なものがあったと認識している。
師が弟子に対して、かなりの、恐らく、今ここを読んでいるみなさんの想像をはるかに超えるだろう修行を課すのである。その内容は壮絶で、師匠がその場にいなければ弟子は死んでしまうほどの修行である。
そんな過酷な修行がなぜ成り立つのか。それは帰依によるものである。
師を、この教えを、信頼して全てをお任せする、あとはどうなっても構わない、そのくらい、わたしは悟りに対して真剣である、という姿勢である。
実際、そのような死ぬほどの肉体的・精神的苦痛を伴う修行は、弟子の悪しきカルマを一気に(今生のうちに)浄化し、悟りへの道を高速で駆け上がる最短の方法だと言われている。
そこには信頼関係がなければ決して辿り着けない道であることは間違いない。
師や教えに対して疑念があれば、修行が上手くいかないばかりか、命を落としてしまいかねない危険をはらむ。もちろん師匠の器や悟りのレベルが高いのは言うまでもなく。
そのようなストーリーを知ってしまうと、今は本当に学びはショッピングなのだと思う。買い手はもちろんだが、売り手もしかり。
ただ、わたしにも思うところはあり、もし叶うのであれば、信頼関係を結ぶことのできる相手には、本当にふさわしいものを提供したいと思う。
相手にふさわしい段階で、ふさわしい時期に、ふさわしい学びを提供したい。
「あなたの練習段階では、今は、何よりもこれを最優先すべきです。」
「あなたはこれをいつ、何回、おこなうべきです。」
「今のあなたにはまだ早い。」
「今週はこれを行いましょう。来年はこれを行いましょう。」
このような指示が出せるものならどれだけ良いだろうかと思う。
だけども、今の世の中のシステムでは、生徒側が選ぶ権利を多く持ってしまっているのである。
時間やお金の都合が最優先となってしまい、困難に立ち向かうことは少なく、モチベーションが上がった時にのみ楽しい範囲で行うものとなる。
結果、受けるべき指導を受けておらず、やらなくていいことをやっている。
というチグハグが生じてくる。
そしてまた、教える側は思いやりの心で、教えを施す気持ちがなければ、決してその教えは響かない。エゴ的教義はもっての外。
このショッピングのような軽さが「風の時代」の特徴だと思ったら大間違いで、これから、どんどん世界で、それぞれの自己の中で、こうしたことに対する抗えない革命が起きてくるだろうと思っている。
人は本当のことを学びたいと思っている時代の到来ともいえる。
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