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目に見えるものと見えないもの

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現代では、ヨガといえば大抵アーサナ(ポーズ)の練習のことを意味し、そのポーズの解釈は伝統から離れ、現代の学問や現代人の思うところの「身体の正解」に寄せてきている、という裏がある。 星の動きでは、冥王星射手座時代(1995~2008)、グローバル化が進んだ時代に、この頃世界的ヨガブームが起きた。 次の冥王星山羊座時代(2008~2023)には権力主義が台頭し、学問も医療も科学でさえも、政治や金融と同じくグローバリストたちの支配のために利用された時代となる。 日本での第三次ヨガブームはこの山羊座時代に隆盛した。(意味深にも過去形にしてみる)山羊座冥王星らしく、本来目に見えないものを扱うはずのヨガが、目に見える非常に物質的な概念である科学、解剖学や現代医学の常識で扱われ、それぞれの流派がそれなりの人気と支持を得て権力を誇るように存在した。 だからこそ、時代の終わりを告げるパンデミックの到来と共に、ヨギたちは揃って口を閉じマスクをし、スタジオから去りオンラインへと舵を切った。それまでは世界をより良い方向へと変えてくれるパワーを持つと信じていたヨガが、現実を前に無力で、希望を与えてくれる存在になれなかった。なんのことはない、グローバリストたちの手のひらで踊らされていたブームだった。これは結果として多くの人々を失望させたのではないかと思う。 目に見える世界の概念では、目に見えないものは扱えない。 目に見えない世界、例えばそれは周波数。その波は周囲のいたるところに存在しているはずでも、まずその存在に気づくことはない。これがひとたび光を当てると粒となり物質性を持ち存在力を増す。科学の世界では量子力学でそれが説明つくのかもしれないが、科学自体が「目に見える」世界のものなので、ここではそのような説明は無力になる。 素粒子は不思議で、意識しないと存在しないが、意識を向けると現れる。それは全く新しく創造されたものとして存在する。 要はどこに自分の意識を向けるかで見えなかったものが現実化する。何を見たか、何に意識を向けるかで、夢が実現するというのはこのこと。気功では「意識を向けた先に気が行き、気が行くところに血液が流れる」という言い方をするが、117才の老人が(老人に見えないが)それを実践することで、素晴らしく滑らかで美しい気功の動きを見せてくれる。現代ヨギのマスターで晩年でそのような身体を

2023年予測(毎年恒例)

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コロナが来た2020年は庚子の年でした。庚は金のエレメントであり、子は水のエレメント。疫病が流行ることを予想させた年のスタートでした。金は肺や呼吸器、免疫系をも意味しますし、また子は溝や用水路のような暗く狭いところでネズミが繁殖するイメージを想像するとわかりやすいかと思います。 そこから十干は金の陰、水の陽、そして今年は水の陰へと移り変わりました。 金から水へは死の時期です。 と、同時にそれは完全なる終焉ではなく、次の生命のための死であり、種の時期です。 そう、今はまだ次の時代へ向けての準備の時なのです。 西洋占星術では破壊と再生の星、冥王星が今まさに山羊座から水瓶座へと移動する時です。 山羊座が象徴する物質社会、金融や大企業や国家権力といったものが最盛した時代が過ぎ去ろうとし、そして破壊され、水瓶座的な時代がやってくると言われています。 水瓶座の時代ってどんな時代?と聞かれて、なかなか一言では言い表せませんし、そもそも過去にその時代を体験していないから何の予測もつかないのですが、私がひとつ思うことは、前の国家権力に対して今度は個の時代、情報の統制だった時代から誰しもが望めば真実を得られる時代であり、それは他の誰からの影響でもない自分の意思を確立し、本当のことを自分の言葉で語りコミュニケーションを取る、自分の足で立ち、みんなのために生きる、そういった人が生き残れる時代になるのではないかと思うのです。 (IT、ネットが活発になる時代とはいえ、現役YouTuberなんかは総入れ替えになるのでは、とも思います。) 二千年単位では魚座から、やはり水瓶座の時代へと移り変わろうとしています。 混乱の時が予想されますが、みんなと同じにしていることが何の救いにもならず、その先の新しい自由な時代を信じて嵐の中を突き進んだ人こそが救われるのでしょう。 映画ポセイドンアドベンチャー(1972年)では、豪華客船が年越しパーティーの最中転覆するというパニックに多くの乗客がみんなと一緒にその場を動かずに救助を待つ選択をしましたが、そこに残った人々の命はありませんでした。転覆した船の中で、スコット牧師と若干9名だけが生き抜くことを考えて行動を起こし、船の中で抜け道を探します。途中絶体絶命の危機を何度か迎えつつ、何名かの大切な仲間の命を失いつつも(なんとスコット牧師までも..!)最終的には6名が無

気功ブーム

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  先日ベトナムまで行ってきて、気功のトレーニングに参加してきました。 世に千以上の気功の流派あれど、これは恐らく最も伝統的なものでありながらも最も英語圏の人々が参加しているトレーニングです。 西洋の世界では気功がじわじわ来ているそうで、ヨガの次のムーブメントは気功だと言われています。 ただ、今がブレイク前夜という感じで、気功をよく知らない人が多いのも特徴です。 キコウをチコウと言ったりするような、そんな感じですかね。 余談ですが、人気温存のためにはブレイクの頂点へ決して行かないことがポイントで、芸能人やアスリートなどここを間違えると早くキャリアが終わります。 それはさておき。 今回、アメリカや中東やヨーロッパ、それぞれの国の仲間のみんなと、みんなの地域で気功のレッスンがどうやって受け入れられたかを話してみました。 やはりどの国、どの地域も、最初は抵抗がある人が少なくなかったそうです。 イメージもですが、気功の動きそのものに抵抗があるのですね。 なんというか...生々しいのです。 自然界にあるものをモチーフとした動きなので、そうなのかもしれません。 例えば、虎の気功を行う時は心身共に虎になったつもりで行います。 それが本当に虎っぽいので、初めての方にはそれを表現するのに照れが生じるのでしょう。 また、中国というイメージ。 これは政治的な意味合いも含め、中国という国や人に対して、なんだかダサくて古くて怪しいイメージを私たちひとりひとりが刷り込まれていると思います。 このイメージを振り払うのは大変ですね。幼いころから西洋やアメリカ的なものが新しくてかっこいいと、中国やアジアは遅れていてカッコ悪いと、ありとあらゆるシーンで無意識に、しかしながら意図的に刷り込まれ続けてきたのですから。日本に生まれ育った時点で恐らく誰しもにこのようなビリーフシステムは出来上がっていることでしょう。 ですが、きちんと知れば、中国の歴史や伝統は素晴らしいものがあります。 気功はざっと5千年以上の歴史を持ち、流派は千以上、いやそれ以上数えきれないほどあれども、重要なポイントは古代からそのままの形、そのままの動きがそれぞれの流派ごとに受け継がれていることです。途中、中国共産党に支配され利用されながらも、その裏でひっそりと、伝統は確実に師から弟子へと受け継がれていました。 インドのヨガとの違いはそこで

あなたの祖先はブッダです

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「 あなたの祖先はブッダです」と言われたことがあります。 バリ島がブームだったかなり前、足繁くバリへと通っていて、ウブドの祈祷師のゲストハウスでお世話になっていた頃の話です。 おぉぉぉぉブッダ! と驚きましたが、安心して下さい。日本人であれば大体祖先はブッダといわれます。 ブッダとは悟った人、ということ。 私たちがブッダと言われて通常想像するあのパンチパーマのゴータマ氏は仏教の開祖であり、紀元前5ないし7世紀頃に実在し、悟りを開き、その教えを衆生に説いた人です。その人が祖先だったというわけではなく、ここで言われる意味は「かつてあなたは悟った人でした」ということです。 わたしたちは皆、悟りの世界から再びこの世へと生まれ落ちてきました。 ところで、今日はそんなブッダの話をしたい訳ではなく。 その祈祷師のことをちょっと思い出したのでした。 ここから話はガラリとバリと祈祷師との思い出に移ります。 この祈祷師はバリの家庭の普通のお母さんです。この人が本当に聖霊と繋がりメッセージを受け取るような能力を持っていたのかどうかはわからないというのが本音ですが、ただ、普通ではないオーラ、パワーを持っている人でした。 実際に彼女にマッサージをしてもらうと、ただならぬ治癒効果を感じます。大きな懐に抱かれて、不調や痛みや苦しみや不安などすべてが穏やかな波と共に消え去るような感覚。そして眠りに落ち、現実とも夢ともわからぬ状態から、南国特有の日差が部屋に差し込むのを感じ、鳥の鳴き声やどこかの水の流れの音を聞きながら安心して目が覚めると、マッサージは既に終わっていて、とてもスッキリしてエネルギーがみなぎっているのを感じたものでした。 彼女を超えるマッサージに出会ったことはなく、あの体験以来、日本やその他の国で受けるどのマッサージも私にとっては商業的で、テクニック重視でとてもつまらないものです。そこにはあの包み込むような癒しの波動がないのです。 ちなみに彼女はそのマッサージのお代のことはいっさい言われないので、こちらが気を遣ってそれ相応の額をお渡しします。しかしそれが相応だったのかは今でもわかりません。なぜならバリ人は一生お金がなくても暮らせるような慎ましい面も持っているし、かと思えば、普通の人が手に入れられないような大金を手にして一瞬で使い果たすような面も持っているからです。 苦労人のお母さんでは

シャクティ 目覚めの時

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  先日改めて驚いたことがあった。 8月に日本での気功オンラインクラス開催にあたり、しっかり復習をしておこうと、海外の先輩のプライベートレッスンを1回1時間申し込んだら、そのレッスン費が27,000円を超えていた。 これは日本で私が全5回を指導するクラス費とほぼ同等。 この20年、日本の外の国々では給料も物価も上がり続けているというが、まずそれを感じているし、おまけに今起きている円安により、これまでより海外の製品(受講料や旅費なども)が単純計算しても1.4倍かそれ以上に上がっているのである。 つまりは10,000円だったものが14,000円、20,000円だったものが28,000円、30,000だったものは42,000円。 思い切って一回参加しました〜!...ならばともかく、学びの場が常に海外という私のようなフリーランスには大変なことになる。 恐ろしいことである。 こうなってくると、海外へ出て学ぶことはおろか、海外のものを取り入れることにだんだんと躊躇していくのではないか。 海外の情報が高くて手に入らないと、日本は日本の中だけで発信して受け取るようになる。 The・鎖国。 未来に蓋を開けてみたら、とっても遅れた国になっていた、とか夢じゃない。 そのような暗雲たる気持ちにさせる一方で、 もうそれはそれでいいんじゃない、と開き直る気持ちも起こる。 日本の中で自給自足して物や情報を回す。 日本の中で勉強して学ぶ。 需要も供給も国内で。 そしてそれはフリーリーに。 ある種の共同体のようなユートピアのような社会になるかもしれない。うまくいけばだけど。 縦割りな社会とか、役人とかリーダーとか企業とか組織とか、要らないんじゃない。 それがなくなって困るのは男性原理的なところでしか生きられない人たち。 女性原理的であれば(女性が、と言っているのではない。男性の中にも女性の中にもある女性性)権力や規則で人を支配したりせず、思いやりと優しさで助け合うだけ。口汚い言論で他を罵って自分の力を見せつけようとせず、愛がその人を大きく見せるだけ。解決を望まず、共感するだけ。 そんな優しい社会になるかもしれない。 今ある男性原理的な社会はいよいよ終焉に近づいているんじゃないかという気がする。 物事の終わりには膿を出し切って、相当な混乱があった上で着地するだろうと。 陰極まって陽だから、とことんまで

三つの宝

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  道教は、人生は三つの宝の形成であると述べました。 精・気・神これらの三つの基本的な生命の根源は完全に量子化されるか、または生まれた時に完成します。私たちが年を取るにつれて時間の経過とともに私たちを死に至らせるべく衰え、枯渇する三つの側面です。 ハタヨーガは、アーサナ、プラーナーヤーマ、ムドラー&バンダ、およびサマーディの実践について述べました。これら四つの側面は、道教の精・気・神の考え方にうまく適合しています。 アーサナにおけるムーブメントは肉体のトレーニングのためではなく、精の育成のためのものです。精は生命の基本材料で、生命を調整し管理する幹細胞、体液、血液、ホルモンなどの概念が含まれています。ムーブメントの練習と共に、私たちは生命を維持するためにその循環と生産を増やすことによって精を育成します。 道教はまた、神に向かってアクセスするために精が気に変わることができると信じています。プラーナーヤーマ、ムドラー、バンダの操作です。それは呼吸と共に肉体的なレベルで働き、それは結局人が止息を見出すことを導きます。呼吸が止まった瞬間、本当の気(プラーナ)が生きてきます。だからこそ、ハタヨーガは、マハームドラー、マハーバンダ、マハーヴェーダ、ケーチャリームドラー、ヴァジローリームドラーなどの重要なムドラーを明確に述べています。ムドラーでハタヨーガは気を封印するだけでなく、気を意識(神)に結びつけました。道教の錬金術は気と神の統一を達成するために体の中央の経絡に沿って気を周回させることによって働きます。彼らはまた十分な気が神の明瞭さにつながると信じています。 気がいっぱいになるとマインドはエネルギーでいっぱいになり、サマーディが起こるためにはこれが必要になります。 ハタヨーガでのムドラーの育成は、人を「鍋」(クンバカ)として体を満たすために導きます。道教ではまた、体を鼎にするという同様の考えを持っています。 本質的に意識を養うために生命のエッセンスを純粋な気に変換するための道具 - このように、サマーディは自然に起こります。もしサマーディのパワーを持っていなかったら、マインドを養うものは何もなかったことになります。鼎の火からの純粋な気だけがマインドの糧になることができるのです。 多くのヨガティーチャーたちは、身体的な操作についての考えに限りがあり、それがもっと重要なことへの

ヨーガは自分の内側を見つめないし体にも意識を向けない

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  イーロン・マスクやジェフ・ベソスらがこぞって宇宙へ飛び立ち、近年、資産家たちの次の投資対象は宇宙に向けられているようだ。人はお金が有り余ると最後は宇宙を求めるしかなくなるのか。そもそも宇宙は人の原点回帰 なのだと思う。 タオ、道教の世界では天界に行くには、肝臓の持つ「魂」のエネルギーが必要だとされている。事実、魂というのは霊的なもの、微細な高次の意識の表れとされ、高次なレベルのエネルギーだ。タオのトレーニングを積んでいく過程で、魂は強力になり、神(シン)を乗せて天界へと旅立つ。 一方で肺の持つ「魄」は非常に物質的で低次なレベルであり、地に引き付けられる。この魄は自己中心的で、世界という大きな規模でものごとを見ることができず、宇宙の采配による人や物の関わりや結びつきといった、大局的なものの見方ができない。それは肉体と繋がっていて、死んでもこの地上を離れることができず、死んだ後も地に埋まった骨の中にいる。 前回のガンダム・ネタでも話したけれど、この地球では重力というものにより、人は身体が重く感じられ、地にひきつけられ、より物質的な自己としての存在感が増す。故に、体が重たい、頭が重たい、ここが痛い、あそこが苦しいなどと、さまざまな不満や不調を述べる。そして快適な肉体への欲求が生まれる。 要は地球にいると自己中心的になりやすい、ということか。自分の意識や身体に目を向けるということは一見素晴らしいことだけど、同時にそれはどんどん外の世界が見えなくなっていき、自分さえよければといった利己的な考えや執着を生む。内向的な人ほど神経質になりやすく、神経症に罹りやすいという説もある。 タオではこういった低次のレベルの魄のエネルギーでも、高次のレベルの魂へと昇華、変換していくことができる。 魂へと昇華するには、いかに身体を手放していくか。感じなくなるか。ヨーガやタオのトレーニングはその身体の感覚を手放していくトレーニングと言える。 しかしながら昨今のヨガクラスでは過剰なまでに身体へと意識を向け、身体のさまざまな部分をしっかりと感じ取るように促される。 もはや、正反対では?? 身体に十分意識を向けたら手放そう。 複雑な呼吸ができるようになったら自然な呼吸に戻そう。 作用があればそこには反作用が存在する。 ということは、常に行きたい方向とは真逆の方向へ行こうとすることが目的地に辿り着く秘