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霊的次元としての魂の成長

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さて、キプロスへ行っておりましたが、出発前からエドガーケイシーに関する書籍をいくつか読み進め、せっかくなのでと、キプロス滞在中はずっとエドガーケイシーの食事療法をひとりひっそりと実践しつつ過ごしておりました。 ざっとこのような内容です。  ・油で揚げたものを避ける  ・肉類を避ける(特に豚肉)  ・新鮮な野菜を豊富に食べる  ・ナス科の野菜を避ける(トマト、ナス、ジャガイモ、ピーマン、パプリカ、トウガラシ)  ・精白したものを避ける(同じ食事で2種類以上の穀物を食べない)  ・甘いものを控える  ・コーヒー、紅茶にはミルクを入れない  ・怒っている時や悲しい時は食べ物を口にしない 期間中、私のプレートには揚げ物も(大好きなハッシュドブラウンも)、豚肉も(当然ハム・ベーコンも)、トマトやナスはもちろんトマトソースやトマトをベースにしたミートソースパスタも一度も乗りませんでした。 日本から遠く離れた気候も食事も大きく異なる地でのハードスケジュールでタフな12日間を一度もバテずに元気で過ごせたのは、その食事のおかげでしょうか。 そのエドガーケイシーですが、民間療法や預言者としてご存知の方も少なくないかもしれません。ケイシーの行った驚異的なリーディングの中から人類の創生についてのリーディングの一部をご紹介します。 時は遥か彼方の昔、宇宙創世の頃、霊的次元である魂は、自己の意識に目覚め始めます。ちょうどその頃、物理的宇宙で生命が展開し始めるのを眺めていた魂たちは、銀河系の中でも特にこの太陽系に興味を持ち目を向け始めます。 (引用ここから) 今から1000万年前に最初にとりわけ生命の進化が進んでいた地球に魅せられ、そこへ降り立った魂らは自らの利己的な好奇心を満足させるために、最初は岩や海などの無生物の中に紛れ込み、その存在状態を楽しみました。 そのうち植物、あるいはハ虫類などの生物に意識を重ねて、それらの存在状態を楽しみました。 しかしその時はまだ、霊としての自覚意識を失うことはありませんでした。地球における生物の進化を意識として体験したのです。 しかしそのうち、動物の生殖行為に多大な興味を持つようになり、憑依しては間接的にその生殖行為を味わうようになり、そのうち自らが直接的にその体験を味わえるように、自らの求める理想的な動物を、自らの想念を使って作り上げ、そこに自らの魂を投入

月と太陽

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ヨガで体を整える、という言葉の意味は、筋肉を正しく使い骨や内臓を本来の位置に戻し、血流を良くしリンパを流して老廃物を排出し、呼吸を適切に行う、、、という事だろうか。 そもそも肉体を整える必要があるのはなぜだかを考えたことがあるだろうか? まだ実体として得ていないかもしれないもの、それは呼吸ともリンクしていて、マインドとして存在している体。そこへと移行していくために、まずは肉体としての体を整える、、、ことがヨガ、ということにしておこう。 もちろんマインドとしての体に移行して終わりではなく、その先にはスピリットとしての体がある。そして更にその先には体はもう存在しない。 これがボディ・マインド・スピリットの階梯である。 だから、解剖学という目線のみで肉体としての層を扱うと、ちょいと危ういことになる 。 その危うさは、まさにこれが正解だと思ってしまう中毒性であり、肉体を取り扱う時には起こりやすい。気をつけて。 ヨガや武術など何かしらの修行をずっと続けていると、マインドとしての身体をだんだんと感じられるようになる。その頃から意識という存在に気づき始め、地に足が着くようになる。 さすがにもう何年もヨガでたくさんの人を見ていると、ポーズで肉体ではない体が肉体に重なって見えるような感覚があり、私がアジャスト(姿勢の修正)する時はだいたい理屈ではなく、『違和感のあるところを整える』という感覚でやっている。この肉体ではない体には結構にその人の感情で出来ているところがあり、ここを取り扱うのだけど、このアジャストは長くやってきて自然に身についたひとつの感覚的能力という感じでもある。 同じ人に会うたびに何度も何度も同じアジャストをするのだけれど、最初は何故いつも繰り返しやっているのにわからないのだろうかと思っていた。真面目にやっている生徒さんなのに何年やっても同じミスアライメントを起こしているのは何故なのか。 それはマインドとしての体が肉体をブロックをしている、ということに気づいた。 陰と陽で月と太陽、という話をしたことがある。 月は肉体で、太陽は意識である。 月はいつも私たちを騙しにかかってくる。月はそれひとつでは輝けない。さも太陽と肩を並べて自分も同じように輝きを誇っているかのように振る舞う月は、太陽からの光を借りてでしか輝けない。 『太陽のように輝いている私を見て見て!』と月に踊らされ

善人なおもって往生を遂ぐ いわんや悪人をや

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  タイトルは親鸞聖人のお言葉。 浄土真宗にはあまり通じていないんだけれども、この言葉は知っている。 『善人が極楽へ行けるんだったら、悪人こそ極楽に行ける』 差し詰め、言葉の意味はそのようなところ。 かの、尊敬してやまない大森秀櫻先生はこれをこう説明した。 『善人とは事大主義なんですね。その時代の権力に従順な人間が善人だということになります。実際にはこれらは悪人なのです』 仮に悪事を働いたとして、それが権力者にとって都合の良いことであれば善人になるというのであれば、今の時代において私は悪人でいて、体制になんて従わずピストルズよろしく『There's no future for you!(お前に将来なんてないぜ!)』と歌っておこうと思う。 ま、悪人というとアレなんで、不良ということにして。 そう、子供の頃、私は不良で、そして周囲にいるいい子ちゃんが苦手だった。 実際には不良だったわけでなく、不良っぽいオーラを漂わせていただけなんだけど、高一の担任をして『お前が入学してきた時は半年ももたないで辞めると思っていたよ』と言わしめた。ま、後にこの先生とは仲良くなるんだけどね。 当時のいい子とはどんな子かという、忘れもしないエピソードがある。 時は湾岸戦争が勃発し、多国籍軍が空爆を開始した、高二の冬のある日。 担任でもあった国語の先生が授業へと教室へ入ってきて最初に発した一言。 『たった今、多国籍軍がイラクへの空爆を開始したそうです。』 それを聞いた時、私は、ついに戦争が始まった...と、突如として暗雲たる気持ちが込み上げていた。たくさんの人が死んでしまうかもしれない。世界はこれからどうなるんだろうという不安。 と、その矢先 『先生、それじゃあ私たちの就職どうなるの!』と真っ先に質問してきたのはクラスで一番のいい子ちゃんだった。成績も優秀で生徒会の役員もしていた子、だったと記憶している。 ...え? そこがポイント? 日本の私たちからしてみれば遥か遠く対岸の火事のような出来事とは言え、そこにいる人の生死に関わり、彼らの生活が脅かされるという問題を前にして、どうして就職のことなんか聞くのか、感覚がまるで違いすぎて、わけのわからない女だと思った。 就職活動に前向きなところ先生にアピールでもしたいのか?? やはりわけがわからないが、とりあえず彼女はミッキーマウスを演じているネ

目に見えるものと見えないもの

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現代では、ヨガといえば大抵アーサナ(ポーズ)の練習のことを意味し、そのポーズの解釈は伝統から離れ、現代の学問や現代人の思うところの「身体の正解」に寄せてきている、という裏がある。 星の動きでは、冥王星射手座時代(1995~2008)、グローバル化が進んだ時代に、この頃世界的ヨガブームが起きた。 次の冥王星山羊座時代(2008~2023)には権力主義が台頭し、学問も医療も科学でさえも、政治や金融と同じくグローバリストたちの支配のために利用された時代となる。 日本での第三次ヨガブームはこの山羊座時代に隆盛した。(意味深にも過去形にしてみる)山羊座冥王星らしく、本来目に見えないものを扱うはずのヨガが、目に見える非常に物質的な概念である科学、解剖学や現代医学の常識で扱われ、それぞれの流派がそれなりの人気と支持を得て権力を誇るように存在した。 だからこそ、時代の終わりを告げるパンデミックの到来と共に、ヨギたちは揃って口を閉じマスクをし、スタジオから去りオンラインへと舵を切った。それまでは世界をより良い方向へと変えてくれるパワーを持つと信じていたヨガが、現実を前に無力で、希望を与えてくれる存在になれなかった。なんのことはない、グローバリストたちの手のひらで踊らされていたブームだった。これは結果として多くの人々を失望させたのではないかと思う。 目に見える世界の概念では、目に見えないものは扱えない。 目に見えない世界、例えばそれは周波数。その波は周囲のいたるところに存在しているはずでも、まずその存在に気づくことはない。これがひとたび光を当てると粒となり物質性を持ち存在力を増す。科学の世界では量子力学でそれが説明つくのかもしれないが、科学自体が「目に見える」世界のものなので、ここではそのような説明は無力になる。 素粒子は不思議で、意識しないと存在しないが、意識を向けると現れる。それは全く新しく創造されたものとして存在する。 要はどこに自分の意識を向けるかで見えなかったものが現実化する。何を見たか、何に意識を向けるかで、夢が実現するというのはこのこと。気功では「意識を向けた先に気が行き、気が行くところに血液が流れる」という言い方をするが、117才の老人が(老人に見えないが)それを実践することで、素晴らしく滑らかで美しい気功の動きを見せてくれる。現代ヨギのマスターで晩年でそのような身体を

2023年予測(毎年恒例)

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コロナが来た2020年は庚子の年でした。庚は金のエレメントであり、子は水のエレメント。疫病が流行ることを予想させた年のスタートでした。金は肺や呼吸器、免疫系をも意味しますし、また子は溝や用水路のような暗く狭いところでネズミが繁殖するイメージを想像するとわかりやすいかと思います。 そこから十干は金の陰、水の陽、そして今年は水の陰へと移り変わりました。 金から水へは死の時期です。 と、同時にそれは完全なる終焉ではなく、次の生命のための死であり、種の時期です。 そう、今はまだ次の時代へ向けての準備の時なのです。 西洋占星術では破壊と再生の星、冥王星が今まさに山羊座から水瓶座へと移動する時です。 山羊座が象徴する物質社会、金融や大企業や国家権力といったものが最盛した時代が過ぎ去ろうとし、そして破壊され、水瓶座的な時代がやってくると言われています。 水瓶座の時代ってどんな時代?と聞かれて、なかなか一言では言い表せませんし、そもそも過去にその時代を体験していないから何の予測もつかないのですが、私がひとつ思うことは、前の国家権力に対して今度は個の時代、情報の統制だった時代から誰しもが望めば真実を得られる時代であり、それは他の誰からの影響でもない自分の意思を確立し、本当のことを自分の言葉で語りコミュニケーションを取る、自分の足で立ち、みんなのために生きる、そういった人が生き残れる時代になるのではないかと思うのです。 (IT、ネットが活発になる時代とはいえ、現役YouTuberなんかは総入れ替えになるのでは、とも思います。) 二千年単位では魚座から、やはり水瓶座の時代へと移り変わろうとしています。 混乱の時が予想されますが、みんなと同じにしていることが何の救いにもならず、その先の新しい自由な時代を信じて嵐の中を突き進んだ人こそが救われるのでしょう。 映画ポセイドンアドベンチャー(1972年)では、豪華客船が年越しパーティーの最中転覆するというパニックに多くの乗客がみんなと一緒にその場を動かずに救助を待つ選択をしましたが、そこに残った人々の命はありませんでした。転覆した船の中で、スコット牧師と若干9名だけが生き抜くことを考えて行動を起こし、船の中で抜け道を探します。途中絶体絶命の危機を何度か迎えつつ、何名かの大切な仲間の命を失いつつも(なんとスコット牧師までも..!)最終的には6名が無

気功ブーム

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  先日ベトナムまで行ってきて、気功のトレーニングに参加してきました。 世に千以上の気功の流派あれど、これは恐らく最も伝統的なものでありながらも最も英語圏の人々が参加しているトレーニングです。 西洋の世界では気功がじわじわ来ているそうで、ヨガの次のムーブメントは気功だと言われています。 ただ、今がブレイク前夜という感じで、気功をよく知らない人が多いのも特徴です。 キコウをチコウと言ったりするような、そんな感じですかね。 余談ですが、人気温存のためにはブレイクの頂点へ決して行かないことがポイントで、芸能人やアスリートなどここを間違えると早くキャリアが終わります。 それはさておき。 今回、アメリカや中東やヨーロッパ、それぞれの国の仲間のみんなと、みんなの地域で気功のレッスンがどうやって受け入れられたかを話してみました。 やはりどの国、どの地域も、最初は抵抗がある人が少なくなかったそうです。 イメージもですが、気功の動きそのものに抵抗があるのですね。 なんというか...生々しいのです。 自然界にあるものをモチーフとした動きなので、そうなのかもしれません。 例えば、虎の気功を行う時は心身共に虎になったつもりで行います。 それが本当に虎っぽいので、初めての方にはそれを表現するのに照れが生じるのでしょう。 また、中国というイメージ。 これは政治的な意味合いも含め、中国という国や人に対して、なんだかダサくて古くて怪しいイメージを私たちひとりひとりが刷り込まれていると思います。 このイメージを振り払うのは大変ですね。幼いころから西洋やアメリカ的なものが新しくてかっこいいと、中国やアジアは遅れていてカッコ悪いと、ありとあらゆるシーンで無意識に、しかしながら意図的に刷り込まれ続けてきたのですから。日本に生まれ育った時点で恐らく誰しもにこのようなビリーフシステムは出来上がっていることでしょう。 ですが、きちんと知れば、中国の歴史や伝統は素晴らしいものがあります。 気功はざっと5千年以上の歴史を持ち、流派は千以上、いやそれ以上数えきれないほどあれども、重要なポイントは古代からそのままの形、そのままの動きがそれぞれの流派ごとに受け継がれていることです。途中、中国共産党に支配され利用されながらも、その裏でひっそりと、伝統は確実に師から弟子へと受け継がれていました。 インドのヨガとの違いはそこで

あなたの祖先はブッダです

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「 あなたの祖先はブッダです」と言われたことがあります。 バリ島がブームだったかなり前、足繁くバリへと通っていて、ウブドの祈祷師のゲストハウスでお世話になっていた頃の話です。 おぉぉぉぉブッダ! と驚きましたが、安心して下さい。日本人であれば大体祖先はブッダといわれます。 ブッダとは悟った人、ということ。 私たちがブッダと言われて通常想像するあのパンチパーマのゴータマ氏は仏教の開祖であり、紀元前5ないし7世紀頃に実在し、悟りを開き、その教えを衆生に説いた人です。その人が祖先だったというわけではなく、ここで言われる意味は「かつてあなたは悟った人でした」ということです。 わたしたちは皆、悟りの世界から再びこの世へと生まれ落ちてきました。 ところで、今日はそんなブッダの話をしたい訳ではなく。 その祈祷師のことをちょっと思い出したのでした。 ここから話はガラリとバリと祈祷師との思い出に移ります。 この祈祷師はバリの家庭の普通のお母さんです。この人が本当に聖霊と繋がりメッセージを受け取るような能力を持っていたのかどうかはわからないというのが本音ですが、ただ、普通ではないオーラ、パワーを持っている人でした。 実際に彼女にマッサージをしてもらうと、ただならぬ治癒効果を感じます。大きな懐に抱かれて、不調や痛みや苦しみや不安などすべてが穏やかな波と共に消え去るような感覚。そして眠りに落ち、現実とも夢ともわからぬ状態から、南国特有の日差が部屋に差し込むのを感じ、鳥の鳴き声やどこかの水の流れの音を聞きながら安心して目が覚めると、マッサージは既に終わっていて、とてもスッキリしてエネルギーがみなぎっているのを感じたものでした。 彼女を超えるマッサージに出会ったことはなく、あの体験以来、日本やその他の国で受けるどのマッサージも私にとっては商業的で、テクニック重視でとてもつまらないものです。そこにはあの包み込むような癒しの波動がないのです。 ちなみに彼女はそのマッサージのお代のことはいっさい言われないので、こちらが気を遣ってそれ相応の額をお渡しします。しかしそれが相応だったのかは今でもわかりません。なぜならバリ人は一生お金がなくても暮らせるような慎ましい面も持っているし、かと思えば、普通の人が手に入れられないような大金を手にして一瞬で使い果たすような面も持っているからです。 苦労人のお母さんでは